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神奈川大学讲座:《后钟敬文时代的中国现代民俗学》

引用:
原帖由 王京 于 2010-8-3 14:05 发表
40#菅丰教授关于自己对福田老师”2.5代“称呼之理解的翻译:

“2.5代”的称呼,是福田先生一句小小的玩笑。

我认为在这句玩笑话中,包含有肯定和否定两个方面。

一直以来,我的民俗学研究,是在福田先生等第 ...
谢谢王京兄。
译得真漂亮。
文从字顺,
晓畅明白。

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引用:
原帖由 王京 于 2010-8-3 14:17 发表


也许是我没有表述清楚。
我原帖想表达的意思简单点说就是:
两国民俗学自身的发展阶段和社会背景都不同,
要谈革命,应该将日本的第二代与中国的所谓第三代相比,
要谈分化,应该将日本的第二代以后与中国“ ...
看来是我理解错了,
不过,我们当时并没有就这个问题进行深入比较和讨论,只是就中日不同学术语境发了个感叹而已。
把这个感叹拿到论坛上一说,好象就成了一个问题。

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引用:
原帖由 施爱东 于 2010-8-3 15:00 发表

看来是我理解错了,
不过,我们当时并没有就这个问题进行深入比较和讨论,只是就中日不同学术语境发了个感叹而已。
把这个感叹拿到论坛上一说,好象就成了一个问题。
菅丰老师当时说了,我也给你翻译了,只不过你没有注意而已。

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施兄37#关于学术史代际划分问题的回复,看起来令人心情沉重。

理想与现实会有差距。但我们不是除了这个极端,就只剩下另一个极端。
因为我们拿不出放之四海皆准的严格标准,就不要谈什么标准了?
科学社会学不会得出这样的结论,科学发展的历史也不支持这样的观点。
虽然范式的革新,并非常规研究的简单积累就可以达到的。
但很难想象,如果没有常规研究对旧范式的反复确认与改善,以及对旧范式无法解决的事实的积累,新的范式能够凭空出现。

我们注定永远无法达致理想状态,我们在实际操作中也许会有妥协,但如果将尽力达致理想这一内在追求也轻易剔除,仅以游戏规则、权力、随意性等作为指针,那么不单是学术史研究,所有的研究,岂不是都将成为喃喃自语?学问也岂非要沦为自我满足的工具?如果这种结果不被允许,那么学者和学术研究的所谓公共性的底线又在哪儿呢?

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本来我已经觉得不沉重了,被王京兄这么一说,又觉得好象沉重起来。
虽然我反对一种普适性的标准,
但我并没有建议学者们放弃对自己的严格要求,
在我的每一篇文章中,我都试图划出清晰的边界,在可操作的范围内操作,
而且,我也试图用这样的标准去衡量别人,比如,我的《概论教育与概论思维》就是这一标准衡量出来的产品。
但是你会发现,甚至那些认真讨论过你的论文,而且当面夸过你的论文的人,也根本没把你的意见当回事。
很快他就会送你一本新的概论,
你在论文中所谈到的一切,
都是空的。
没人当你一回事。

说实话,我越来越倾向于把学术研究当作一种自我满足的工具。
正因为是一种自我满足的工具,
你才能够严格要求自己,不会迷失在课题、发表、名誉、地位的争夺中。
因为我要满足的,是我自己,
而不是领导的指标、学校的指标。

钟先生在世时那么崇高的地位,
他对学术研究有过那么多认真的规划,
你看见谁认真执行过了?
福田先生的标准也许影响到了许多人,
我非常相信他的标准是非常合理的,
但我还相信,他身边也一定有很多人并没有严格地执行这些“合理的”标准。
你总不能说那些不执行他的标准的人,就不是做学问吧?

从另一个角度来看。

有一些标准是可以用来要求别人的,
有一些标准是不能用来要求别人的。

你可以要求别人讲事实、讲材料、讲逻辑,
因为这些标准是无条件的,是全部学术研究都必须遵守的共同标准,不是某个个人所制定的。

但你不可以要求别人按某种理论、按某种方法、按某人的规定,
因为这些东西是允许多样性的,
是可以因人而异的。
也正是从这个角度来看,
牛顿定律是可以被推翻的,
福田先生所努力生产的所有标准和方法也都是可推翻的。

关于学术史的代际标准,
无疑是后者。

[ 本帖最后由 施爱东 于 2010-8-3 17:41 编辑 ]

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引用:
原帖由 小人家 于 2010-8-3 15:23 发表

菅丰老师当时说了,我也给你翻译了,只不过你没有注意而已。
我听了呀。
当时菅丰介绍了日本几代民俗学者的大体研究取向,以及代际之间差别等等。
同时问了问中国的青年民俗学者是如何能够凝聚到一起的,
接着,就日本的现状做了些说明,感叹了几句。
这很正常呀。
总不能拿比较研究的标准来衡量聊天吧?
我们又没有把《红楼梦》和《源氏物语》拿来进行比较研究。

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引用:
原帖由 施爱东 于 2010-8-3 17:33 发表

我听了呀。
当时菅丰介绍了日本几代民俗学者的大体研究取向,以及代际之间差别等等。
同时问了问中国的青年民俗学者是如何能够凝聚到一起的,
接着,就日本的现状做了些说明,感叹了几句。
这很正常呀。
总不 ...
我不跟你犟了,省得好像我在欺负你记性不好。

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引用:
原帖由 菅豊 于 2010-8-3 12:05 发表
我用日语, 真对不起 。日本語ですみません。忘れないうちに記します。

施氏の発表は、非常に刺激的なものでした。中国で起こった学術革命は、日本民俗学にとっても非常に興味深いものです。その結集の力 ...

看来王京只翻译师兄指定的部分。那么剩下的我来翻译吧。
以下蓝色文字部分即是菅丰老师35#  的回复内容的中文翻译。


标题:听了施爱东博士的报告

  使用日语发言,对不起!趁还没有忘记,记述如下。

  施氏的报告,是非常令人激动的。在中国发生的学术革命,对日本民俗学来说是一件非常令人感兴趣的事。我为你们团结的力量感到震惊。


  在日本,由柳田国男和他的弟子们形成的第一代,以及由产生于20世纪50年代末期的学院派学者形成的第二代,创造了20世纪民俗学。但是,他们的方法太过偏向于“历史民俗学”,已经无法适应现代社会。虽然从20世纪90年代开始,不断出现有异于此前的20世纪民俗学的多种多样的民俗学,但是它们都不具有代表现在的日本民俗学的能力,所以日本民俗学没有产生统一的研究的方向性。毋宁说现在是处于一种扩散的状况。

  这种扩散的状况,在20世纪民俗学者看来值得否定的,但是,为了21世纪新的民俗学局面能够诞生,我认为毋宁说是一种当然值得肯定的状况。

  在日本民俗学的这种扩散的状况中,像中国民俗学的第三代那样团结起来形成一个运动主体,是非常困难的。由于研究领域的分散,无法产生由民俗学这样一个名词统一起来的方向性。此外,研究者之间的能力有着很大的差异,对现在的日本民俗学存在的问题的危机感也无法形成共识。能够对这种危机感形成共识的中国民俗学的第三代,实在是令人羡慕。

  看到中国民俗学的学术革命,使人仿佛想起日本民俗学的第二代发起的学院化。以和歌森太郎、宫田登、福田亚细男等人为代表的学院派民俗学,通过大学教育系统再生产了大量研究者,扩大了自己的势力(我也是其中一员)。在这个过程中,原来支撑着日本民俗学的非职业(non-professional)研究者被默默地排除了。这在使民俗学成为普通的学问上是一项重要的工作,但是同时也产生了抹消掉日本民俗学作为实践性的“野的学问”这一特征的副作用。其结果是,日本民俗学变成了与社会分离的,没有实际作用的学问,失去了在社会上的存在感。同时,那以后学院派民俗学过分固执于历史民俗学,无法应对现代的问题,也失去了它的学术力量。

  中国民俗学第三代研究者的登场,从民俗学的发展过程来说是当然的结果。问题在于追求以后的学术的独立性上。第三代研究者与过去的世代比起来,有着更加强烈的学院派志向。因此,从现在开始应该不断进行确保民俗学能够与文化人类学、宗教学、文学、历史学等其他学问相抗衡的独立性,确立一个学科(discipline )的牢固基础的工作。在这个过程中,建立起异于其他学问的独立性,是今后的重要课题。

  就日本的学术界的现状而言,仅仅确保民俗学的独立性是很困难的。有很多学科已经开始了学际的、不分领域的融合,学科的确立这一问题本身也失去了意义。在这样的情况下,中国民俗学的第三代研究者,如何在学术界建立具有独立性的民俗学,我们这些日本民俗学“无法团结起来的第三代”非常感兴趣,并且正在关注。

实际上,菅丰老师回复中的倒数第二段,恰如福田老师在会上对菅丰老师的反问一样:你们和历史民俗学说“再见”以后,和什么说“你好”呢?中国的第三代民俗学研究者当然没有也不会和历史民俗学说“再见”,纵观中国民俗学的学术史,大概在学术上也没有什么可以说“再见”的既有的明确的对象,但还是存在一个问题,也就是和什么说“你好”呢?菅丰老师当时的回答,现在无法仔细整理了,但是我斗胆说一句,菅丰老师似乎还没有找到可以说“你好”的对象。但是,他的态度是,首先要揭示有问题存在这样一个事实,也就是首先要把危机放在大家的鼻子底下,让大家知道存在这危机,需要革命,也就是他在这个回复里说的,对民俗学面临的危机形成共识。同时我记得,菅丰老师还说了,目前我能做到的只有这一点。我的记忆是否正确,理解是否切当,还要请菅丰老师再次在此阐述。
我马上要出发去中华街凑关帝诞的热闹了,希望回来以后看到大家的进一步讨论。菅丰老师的发言我回来再翻译,或者烦王京代劳。
匆匆译就,恐怕有不少错别字或不当之处,万望海涵。

中华街关帝诞拜神部分结束了,游神部分下午5点开始,趁这个间隙回学校研究室修改了一下译文,应该比原来更准确和通顺了。
翻译要做到信雅达真的很难啊!
另外,译文中紫色的“普通的学问”一词,希望菅丰老师解释一下。是您在31号的会议上提到过的福田老师所讲的“普通的学问”吗?其意义是什么呢?是指学院化的,遵循与其他学科相同的游戏规则的,可以与其他学科进行平等的学际对话的学科吗?(菅先生、「普通の学問」という言葉ですが、説明していただければ幸いに思います。これは、先生が31日の研究会で言及された、福田先生のおっしゃった「普通の学問」と同じものですか?その意味はなんでしょう。アカデミックで、他の学問と同じルールを共有し、他の学問と平等的に対話できる学問という意味ですか。)

[ 本帖最后由 小人家 于 2010-8-4 13:50 编辑 ]

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「普通の学問」について

難しい内容を含んでいるので、私の中国語の水準では、施さんや王さんの論点を正しく理解できていないかもしれません 。どうしても異文化間の対話は誤解を招きやすいものです 。もし間違っていたらお許しください。また、長い日本語の文章ですので、もし万が一小人家が訳されるとしたら、お詫び申し上げます。すみません

さて、まず、“普通的学问”の意味ですが、それは31日の現代民俗学会“超越福田亜細男”シンポジウムで福田先生が述べられていたものとまったく同じです。“普通的学问”とは、学院化し、他の学問と同様に学問の作法と学問ルールをもち、さらに他の分野と共通の言語で交流する仕組みをもった学問のことです。福田先生は、1970年代からずっと、日本の民俗学が普通の学問となることを切望し、努力されており、その意志は私にも引き継がれています。

福田先生や私が、“普通的学问”を主張するということは、かつて日本の民俗学が普通ではなく、さらに現在でも、それが普通ではないという否定的な状況にあることを示しています。福田先生が活躍し始めていた1970年代には、まだ第一世代が多く残っていました。彼らの大半は、アカデミックな民俗学教育を受けていない、さらに学問に責任を持つ必要のない非職業的研究者たちでした。それを、改革して学問化しようというのが、第二世代の福田先生の大きな動きでした。

しかし、それは十分に完成しませんでした。現在、日本民俗学会は2300人もの会員を有しますが、そのなかで職業的な研究者、すなわち大学の研究者や、その他博物館などの公的機関に所属する研究者は三分の二までは達しないのではないでしょうか(推測です)。すなわち、他の学問と比べ、いわゆる非職業的な研究者、あるいはアマチュアが学会に多く関わっているのです。その状況は、他の文化人類学会や社会学会などと比べ、「普通ではない」状況にあります。

ただし、いまの日本の民俗学の問題は、そのような非職業的な研究者にあるのではないと、私は考えます。問題は、大学に職を持っている職業的で専門的(professional)である(はずの)研究者のレベルの低さだと私は考えます。私個人の意見としては、専門的・職業的な学問社会で立派に通用する研究者は、日本民俗学会の2300人の会員のうち僅か100名程度ではないかと思っております。大学に勤めて教授を名乗っていても、それは狭い民俗学の世界だけで通用しているだけであり、広く学問社会では名前も知られていないし、相手にされていないのです。中国も日本も同じですが、当然、職業的な研究者のなかに、優れた人もいれば劣った人もいます。その差が、日本民俗学では、いまだに大きいといわざるを得ません。

福田先生は宮田登先生などともに、アマチュア的な第一世代の研究を学院化するにあたって、概論書、調査・研究ハンドブック、集成、日本民俗大辞典などの基本的な書物編纂を主導し、民俗学の体系化と科学化を推進しました。それは、民俗学を「標準化」しようとする試みでした。その時点では、この「標準化」の試みは正しく、またその時代に必要とされていたものでした。このような標準化の過程で、大学教員ポストが開拓されましたし、また、国家が与える科学研究費の一項目として民俗学が採用される、すなわち公的、社会的に学問として認められることとなりました。したがって、私は、その標準化をその時代において肯定的に評価します。

しかし、その後、その標準化の結果、学問の画一化、あるいは標準を金科玉条のごとく変えない学問の硬直化という現象が起こりました。この現象にはまり込んだのが、まさに変革を起こしたはずの第二世代それ自身になるわけです。第二世代は、戦後、大学教育のなかで民俗学を学んできました。そのなかで論文の書き方や資料の集め方など、学問の作法を学んでいます。しかし、理論や目的、対象に関し、福田先生たちが標準化したものを素直に受け入れるだけで、何の疑問もなく惰性で研究を継続してきました。自らが独自に考えるという努力を怠ってきたのです。そして、それは現在まで続いているのです。

そのような研究者は、できたばかりの未熟な学問=民俗学に閉じ籠もり、国際的な研究水準を勉強したり、また、他学問の知見を取り入れたりする努力を怠りました。その結果、1990年代から他の人文・社会科学が大きく変容するなか、民俗学だけは変化せずに取り残されたわけです。すなわち、民俗学は、再び“普通的学问”ではなくなってしまったわけです。

本来ならば、福田先生たちの標準化のあとに、その標準を時代や学問状況に合わせて更新する努力を後輩たちは継続すべきでした。ただ残念なことに、第二世代の大半は、そのような能力と意欲に欠けていました。その結果、1990年代からの日本民俗学の停滞が今日まで継続するわけです。

一方、1990年代から、若手を中心に改革、あるいは新しい民俗学の構築を試みる動きは起こっています。その中には、中国には紹介されていないけれども、先進的、先鋭的な論考もたくさんあります。そもそもこれまでの日本と中国の民俗学の交流は、第二世代を中心とするものでした。そこで紹介されてきた日本民俗学の業績は、必ずしも優れている研究者や論文・書物ばかりではありません。

1990年代以降の日本民俗学研究は、関心も研究方向も方法も多様であり、統一された方法論や目的、あるいは民俗学の位置づけというものすら共有していません。そのため、「第三世代」と一括りにすることには若干ためらいがあります。そのひとつひとつの研究の動きには、目新しく革新的なものもあるのですが、民俗学全体を一つで代表するような力をもっていません。それらの共通点をあえて探すならば、「歴史民俗学―福田先生がどうしても捨てることができないもの―を否定する」ことでしかないと福田先生は受け止めています。したがって、福田先生は、このような歴史民俗学を否定し多様な民俗学像を求める1990年代以降の動きに対して、「民俗学の頽廃」という強い否定をされているわけです。

しかし、このような研究の不統一や拡散は、ポストモダン時代には他の人文・社会科学でも同様に起こっている現象です。多くの学問において、グランド・セオリーは揺らいでいるし、一つの考え方や手法で研究を進めるなどということはできなくなっています。さらに加えて、手法や理論、対象が脱領域的、分野横断的に繋がるようになっているわけです。そういった状況で、民俗学という学科disciplineにこだわること自体が、意味のないこととされる風潮も日本ではあります。そのような状況は、混沌とし混迷している状況なのですが、第二世代のように頑迷に変わることを拒む学問姿勢よりも、将来への可能性をもっていると私は思います。したがって、私は福田先生とは正反対に、この状況を「頽廃」ではなく、新しい民俗学の胚胎期であり、それ生み出すために雌伏して機会をうかがう重要な時期だと考えています。

そうはいうものの、現在の若い大学院生は、第二世代の研究者に育てられ、かなり考え方の制限を受けるために、第二世代と同じ考えをもち、それを継承しようとする者もいます。皮肉なことに、若手ほど保守的で革新を拒むという傾向もあります。それは、学界を牛耳り、研究環境を支配する第二世代に責任があるわけです。

第二世代は、第一世代と違いアカデミックな教育を受けてきたわけですが、本当に学院化が成功したわけではありません。いまだに、第一世代が生み出した、「常民」や「伝承」などといった、「日本」でしか通用しない、そして「民俗学」でしか通用しない異常な専門用語(jargon)を使用する研究者もいます。まともな研究者ならば、これらの言葉がすでに陳腐化し、現代社会で使用不可能なことくらいは気がつくはずですが、閉じ籠もった第二世代やそれに教育を受けた若い大学院生などは、気がつかないわけです。また、気がついても他の学問と交流したり、海外の民俗学と交流する能力がなく、それに恐れを感じているために、敢えて自分たちだけの世界に内向的に閉じ籠もっているのです。それは、排他的な「愛民俗学主義」です。

こういった状況を打破するためには、第二世代をきちんと理解し、その問題点を明らかにし、そしてそれを清算し、乗り越える必要があります。第二世代を無視したり、黙殺したりして、なし崩し的に変化を起こすというのではなく、ちゃんと正面から闘うという姿勢が必要なのです。そのために企画されたのが31日の“超越福田亜細男”シンポジウムでした。そこで明らかになったのが、「民俗学=歴史学」という日本特有の位置づけと、そして、それを絶対に変えないというかたくなな福田先生の姿勢でした。見事なほどに、福田先生は変化することを拒んでいます。それは潔いほどです。

しかし、今の日本民俗学が21世紀に対応するには、歴史民俗学的性格をその学問の「全体」ではなく、「部分」へと変えなければならない。福田先生が大事にする手法を、民俗学のone of themにしなければならないのです。それは、そのシンポジウムで明らかになったことだと思います。しかし、一方で具体的な他の強力な選択肢を、現在、我々は提示することはできません。先に述べたように、実際には第三世代の関心や方法は多様化しています。そのひとつひとつは福田先生が主張するような歴史民俗学ほどの統一性をもっていない。むしろ、多様であることにこそ今後民俗学が継続する可能性を孕んでいるのです。これは生物多様性の問題と同じです。

多様な民俗学を積み重ねながら、そのなかで有力な民俗学を取捨選択しなければならないのです。福田先生も、シンポジウムのなかで話していましたが、これからは多様な民俗学が生起し、それぞれが民俗学の正統性を獲得し、覇権を争う競争、闘争が必要なのです。研究の拡散とそれぞれの競争が、これから求められているのです。しかし、現状の日本民俗学の第三世代は、中国の第三世代と異なり人間関係においても、価値においても分断されています。だから日本民俗学では学術革命は起こりえない状況にあります。研究の手法が単純な日本の第二世代の方が、むしろ結集しやすいのです。当然、結集力が強いグループが、学界の主導権を握っています。しかし、これから徐々にですが世代交代が進むでしょう。その過程で、第三世代が主導権を握って、小異を捨てて大同団結することができれば、日本民俗学は大きく変わることができるでしょう。ただ、それは簡単なことではありません。むしろ、それぞれの研究者の民俗学=学科disciplineへのアイデンティティが弱まりつつある現在、民俗学にしがみつくのは変われない能力の低い研究者だけかもしれません。また、小異にこだわって、大同できない状況が続くかもしれません。

私は、社会学や文化人類学、歴史学などの分野で学際的に研究活動を行っておりますが、自らの学問のアイデンティティは民俗学としています。民俗学にかなり強くこだわっている研究者です。それは、自分の学問的出自が民俗学にあるということだけではなく、民俗学に、いまだ他の学問にない可能性を見出しているからです(その可能性についてはまた別の機会に)。他学問の研究者や、民俗学にアイデンティティを強く持たない民俗学者からは、「なぜ、まだ民俗学にこだわるのか?」とよく質問されます。そのとき、必ず「民俗学には、他の学問にない可能性が、いまだあるからです」と答えることにしています。もし、そのような可能性が、本当に民俗学に見出せなくなったとしても、私は敗北を抱きしめながら民俗学者と名乗るつもりです。それは孤独な闘いですが、70年代には福田先生も孤独でした。

翻って中国を見るならば、第三世代の学術革命が羨ましい限りです。少なくとも、変わるという選択肢を選び、それを団結して実行に移すことができた世代は、過去に強く拘泥される日本民俗学よりも幸せですし、その意気込みに敬服するばかりです。しかし、一方で今後の第三世代の運動の継続性と統一性に関しては、私は若干の不安を感じます。施愛東博士の率直な説明によると、変化を求めた第三世代は、まさに小異を捨てて大同団結したものでした。大きな変化を達成した現在、その小異が再度顕在化することと思います。研究の方法、関心、目的、分野のいずれをとっても、一つにすることは困難です。中国においても、学問境界の溶解が今後進展するでしょうから、民俗学の多様化は避けられない。また、さらに日本民俗学を他山之石とするならば、あえて一つにすることは学問発展において逆効果です。

そうすると変動期にある中国民俗学のなかで、今後、小異の間の研究上の主導権獲得競争が起こるでしょう。起きなければ、日本民俗学のようにそれぞれが分断された拡散状況へと陥るだけです。そういったなか、本来やるべきことは、他学問との研究上の主導権獲得競争であるはずです。そこで一定の成果を得なければ、学問社会の隅っこの地位しか与えられないか、あるいは学問社会から脱落させられるかのいずれかでしかありません。日本民俗学は、まさにその危機にあります。そして、アメリカ民俗学なども、まったく同じ危機の状況にあります。日本では1950年代から学院化を進展させ、学問の標準化が行われ、その後、固定化されて変化しなかったために、民俗学の危機を迎えています。一方、アメリカでも、20世紀中庸に学院化が進展し、学問の標準化が行われ、さらに20世紀後半には、変革もなされました。その変革を試みたアメリカですら、民俗学の危機を20世紀末に叫ばなければならない状況に陥ったのです。

それぞれの国で、それぞれの民俗学を取り巻く歴史や社会・学問状況、研究環境が異なるので、まったく同じに判断することはできませんが、世界の民俗学の状況から判断すると、中国における大きな学術革命のあとに生み出される状況も、単純に楽観視することはできません。しかし、少なくとも「変革」を選択した、中国の第三世代の動きは正解だったと思います。そして、それが今後の中国民俗学の発展に寄与する学史的な出来事であったと確信します。さらに、その変革は、第二世代から第三世代への発言力の移行や、民俗学の学院化、体系化で終了するのではなく、その後も不断に継続される必要性があるのでしょう。そして、その変革を継続する強い決意を、施愛東博士の講演から力強く感じ取りました。この運動の道筋は、今後、中国民俗学から日本民俗学が学び取らなければならない重要な課題となると、私は考えています。

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乖乖,我还没来得及对小人家妹妹送上我的感谢和赞美。
马上又引出这么一大篇。
辛苦各位!

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先生、長いです...
横浜中華街から帰ってきて、夕食を食べたところですので、一呼吸をしてから翻訳させていただきます。
関帝誕、なんとも言えない賑やかさでした。やはり中国人のお祭りは騒々しいというか賑やかです。なるべく多くの情報を残そうと、真夏日に人ごみを走るのも楽しかったです。ま、ちょっと変わった楽しみでしたが。

(自己意译一下)
老师大人,太长了……
刚从中华街回来,晚饭筷子刚放下,先歇歇再翻译。
关帝诞那是没法形容的热闹啊!中国人的节日庙会啥的就是又吵吵又热闹。为了多留点记录,大夏天的在人群里跑来跑去也挺好玩的,就是不是普通的那种好玩。
(以下日文版没有的)
幸好我没有心脏病,要不今天肯定翘在那里了。师兄没去是正确的,要不你这把不做田野的老骨头估计也要翘在那里。不过,那里头有你感兴趣的东西,你不求我我就不告诉你,哼!

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回复 56# 的帖子

请多多关照! 慢慢翻译吧!

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回复 57# 的帖子

俺在凉山点燃火把──欢迎菅豊君登坛落户~~
且看几位跨语际叱吒。。。
尤其是东瓶斑竹和小人家美眉辛苦,爪子还不赶紧上茶?

遥祝大家快乐每一天,日子过得红红火火,学问做得巴巴适适~~

孜莫格尼,吉祥安康~~

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谢谢啦!
谢谢啦!
给各位捧场的弟兄作揖了!
求求小人家妹妹了。
早知道你会去,我也去了,我是因为耳聋嘴哑,一个人不敢去。

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引用:
原帖由 施爱东 于 2010-8-4 22:27 发表
谢谢啦!
谢谢啦!
给各位捧场的弟兄作揖了!
求求小人家妹妹了。
早知道你会去,我也去了,我是因为耳聋嘴哑,一个人不敢去。
切!那你自己不问问我……
不过一个人好行动啊!你去了还要带着你。明天你msn我好了,我告诉。

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