中国民俗学会海外会员、东京大学东洋文化研究所菅丰向大家问好! http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~suga/

关于“普通的学问”

上一篇 / 下一篇  2010-10-14 19:31:26

「普通の学問」について

難しい内容を含んでいるので、私の中国語の水準では、施さんや王さんの論点を正しく理解できていないかもしれません。どうしても異文化間の対話は誤解を招きやすいものです。もし間違っていたらお許しください。また、長い日本語の文章ですので、もし万が一小人家が訳されるとしたら、お詫び申し上げます。すみません

さて、まず、“普通的学问”の意味ですが、それは31日の現代民俗学会“超越福田亜細男”シンポジウムで福田先生が述べられていたものとまったく同じです。“普通的学问”とは、学院化し、他の学問と同様に学問の作法と学問ルールをもち、さらに他の分野と共通の言語で交流する仕組みをもった学問のことです。福田先生は、1970年代からずっと、日本の民俗学が普通の学問となることを切望し、努力されており、その意志は私にも引き継がれています。

福田先生や私が、“普通的学问”を主張するということは、かつて日本の民俗学が普通ではなく、さらに現在でも、それが普通ではないという否定的な状況にあることを示しています。福田先生が活躍し始めていた1970年代には、まだ第一世代が多く残っていました。彼らの大半は、アカデミックな民俗学教育を受けていない、さらに学問に責任を持つ必要のない非職業的研究者たちでした。それを、改革して学問化しようというのが、第二世代の福田先生の大きな動きでした。

しかし、それは十分に完成しませんでした。現在、日本民俗学会は2300人もの会員を有しますが、そのなかで職業的な研究者、すなわち大学の研究者や、その他博物館などの公的機関に所属する研究者は三分の二までは達しないのではないでしょうか(推測です)。すなわち、他の学問と比べ、いわゆる非職業的な研究者、あるいはアマチュアが学会に多く関わっているのです。その状況は、他の文化人類学会や社会学会などと比べ、「普通ではない」状況にあります。

ただし、いまの日本の民俗学の問題は、そのような非職業的な研究者にあるのではないと、私は考えます。問題は、大学に職を持っている職業的で専門的(professional)である(はずの)研究者のレベルの低さだと私は考えます。私個人の意見としては、専門的・職業的な学問社会で立派に通用する研究者は、日本民俗学会の2300人の会員のうち僅か100名程度ではないかと思っております。大学に勤めて教授を名乗っていても、それは狭い民俗学の世界だけで通用しているだけであり、広く学問社会では名前も知られていないし、相手にされていないのです。中国も日本も同じですが、当然、職業的な研究者のなかに、優れた人もいれば劣った人もいます。その差が、日本民俗学では、いまだに大きいといわざるを得ません。

福田先生は宮田登先生などともに、アマチュア的な第一世代の研究を学院化するにあたって、概論書、調査・研究ハンドブック、集成、日本民俗大辞典などの基本的な書物編纂を主導し、民俗学の体系化と科学化を推進しました。それは、民俗学を「標準化」しようとする試みでした。その時点では、この「標準化」の試みは正しく、またその時代に必要とされていたものでした。このような標準化の過程で、大学教員ポストが開拓されましたし、また、国家が与える科学研究費の一項目として民俗学が採用される、すなわち公的、社会的に学問として認められることとなりました。したがって、私は、その標準化をその時代において肯定的に評価します。

しかし、その後、その標準化の結果、学問の画一化、あるいは標準を金科玉条のごとく変えない学問の硬直化という現象が起こりました。この現象にはまり込んだのが、まさに変革を起こしたはずの第二世代それ自身になるわけです。第二世代は、戦後、大学教育のなかで民俗学を学んできました。そのなかで論文の書き方や資料の集め方など、学問の作法を学んでいます。しかし、理論や目的、対象に関し、福田先生たちが標準化したものを素直に受け入れるだけで、何の疑問もなく惰性で研究を継続してきました。自らが独自に考えるという努力を怠ってきたのです。そして、それは現在まで続いているのです。

そのような研究者は、できたばかりの未熟な学問=民俗学に閉じ籠もり、国際的な研究水準を勉強したり、また、他学問の知見を取り入れたりする努力を怠りました。その結果、1990年代から他の人文・社会科学が大きく変容するなか、民俗学だけは変化せずに取り残されたわけです。すなわち、民俗学は、再び“普通的学问”ではなくなってしまったわけです。

本来ならば、福田先生たちの標準化のあとに、その標準を時代や学問状況に合わせて更新する努力を後輩たちは継続すべきでした。ただ残念なことに、第二世代の大半は、そのような能力と意欲に欠けていました。その結果、1990年代からの日本民俗学の停滞が今日まで継続するわけです。

一方、1990年代から、若手を中心に改革、あるいは新しい民俗学の構築を試みる動きは起こっています。その中には、中国には紹介されていないけれども、先進的、先鋭的な論考もたくさんあります。そもそもこれまでの日本と中国の民俗学の交流は、第二世代を中心とするものでした。そこで紹介されてきた日本民俗学の業績は、必ずしも優れている研究者や論文・書物ばかりではありません。

1990年代以降の日本民俗学研究は、関心も研究方向も方法も多様であり、統一された方法論や目的、あるいは民俗学の位置づけというものすら共有していません。そのため、「第三世代」と一括りにすることには若干ためらいがあります。そのひとつひとつの研究の動きには、目新しく革新的なものもあるのですが、民俗学全体を一つで代表するような力をもっていません。それらの共通点をあえて探すならば、「歴史民俗学―福田先生がどうしても捨てることができないもの―を否定する」ことでしかないと福田先生は受け止めています。したがって、福田先生は、このような歴史民俗学を否定し多様な民俗学像を求める1990年代以降の動きに対して、「民俗学の頽廃」という強い否定をされているわけです。

しかし、このような研究の不統一や拡散は、ポストモダン時代には他の人文・社会科学でも同様に起こっている現象です。多くの学問において、グランド・セオリーは揺らいでいるし、一つの考え方や手法で研究を進めるなどということはできなくなっています。さらに加えて、手法や理論、対象が脱領域的、分野横断的に繋がるようになっているわけです。そういった状況で、民俗学という学科disciplineにこだわること自体が、意味のないこととされる風潮も日本ではあります。そのような状況は、混沌とし混迷している状況なのですが、第二世代のように頑迷に変わることを拒む学問姿勢よりも、将来への可能性をもっていると私は思います。したがって、私は福田先生とは正反対に、この状況を「頽廃」ではなく、新しい民俗学の胚胎期であり、それ生み出すために雌伏して機会をうかがう重要な時期だと考えています。

そうはいうものの、現在の若い大学院生は、第二世代の研究者に育てられ、かなり考え方の制限を受けるために、第二世代と同じ考えをもち、それを継承しようとする者もいます。皮肉なことに、若手ほど保守的で革新を拒むという傾向もあります。それは、学界を牛耳り、研究環境を支配する第二世代に責任があるわけです。

第二世代は、第一世代と違いアカデミックな教育を受けてきたわけですが、本当に学院化が成功したわけではありません。いまだに、第一世代が生み出した、「常民」や「伝承」などといった、「日本」でしか通用しない、そして「民俗学」でしか通用しない異常な専門用語(jargon)を使用する研究者もいます。まともな研究者ならば、これらの言葉がすでに陳腐化し、現代社会で使用不可能なことくらいは気がつくはずですが、閉じ籠もった第二世代やそれに教育を受けた若い大学院生などは、気がつかないわけです。また、気がついても他の学問と交流したり、海外の民俗学と交流する能力がなく、それに恐れを感じているために、敢えて自分たちだけの世界に内向的に閉じ籠もっているのです。それは、排他的な「愛民俗学主義」です。

こういった状況を打破するためには、第二世代をきちんと理解し、その問題点を明らかにし、そしてそれを清算し、乗り越える必要があります。第二世代を無視したり、黙殺したりして、なし崩し的に変化を起こすというのではなく、ちゃんと正面から闘うという姿勢が必要なのです。そのために企画されたのが31日の“超越福田亜細男”シンポジウムでした。そこで明らかになったのが、「民俗学=歴史学」という日本特有の位置づけと、そして、それを絶対に変えないというかたくなな福田先生の姿勢でした。見事なほどに、福田先生は変化することを拒んでいます。それは潔いほどです。

しかし、今の日本民俗学が21世紀に対応するには、歴史民俗学的性格をその学問の「全体」ではなく、「部分」へと変えなければならない。福田先生が大事にする手法を、民俗学のone of themにしなければならないのです。それは、そのシンポジウムで明らかになったことだと思います。しかし、一方で具体的な他の強力な選択肢を、現在、我々は提示することはできません。先に述べたように、実際には第三世代の関心や方法は多様化しています。そのひとつひとつは福田先生が主張するような歴史民俗学ほどの統一性をもっていない。むしろ、多様であることにこそ今後民俗学が継続する可能性を孕んでいるのです。これは生物多様性の問題と同じです。

多様な民俗学を積み重ねながら、そのなかで有力な民俗学を取捨選択しなければならないのです。福田先生も、シンポジウムのなかで話していましたが、これからは多様な民俗学が生起し、それぞれが民俗学の正統性を獲得し、覇権を争う競争、闘争が必要なのです。研究の拡散とそれぞれの競争が、これから求められているのです。しかし、現状の日本民俗学の第三世代は、中国の第三世代と異なり人間関係においても、価値においても分断されています。だから日本民俗学では学術革命は起こりえない状況にあります。研究の手法が単純な日本の第二世代の方が、むしろ結集しやすいのです。当然、結集力が強いグループが、学界の主導権を握っています。しかし、これから徐々にですが世代交代が進むでしょう。その過程で、第三世代が主導権を握って、小異を捨てて大同団結することができれば、日本民俗学は大きく変わることができるでしょう。ただ、それは簡単なことではありません。むしろ、それぞれの研究者の民俗学=学科disciplineへのアイデンティティが弱まりつつある現在、民俗学にしがみつくのは変われない能力の低い研究者だけかもしれません。また、小異にこだわって、大同できない状況が続くかもしれません。

私は、社会学や文化人類学、歴史学などの分野で学際的に研究活動を行っておりますが、自らの学問のアイデンティティは民俗学としています。民俗学にかなり強くこだわっている研究者です。それは、自分の学問的出自が民俗学にあるということだけではなく、民俗学に、いまだ他の学問にない可能性を見出しているからです(その可能性についてはまた別の機会に)。他学問の研究者や、民俗学にアイデンティティを強く持たない民俗学者からは、「なぜ、まだ民俗学にこだわるのか?」とよく質問されます。そのとき、必ず「民俗学には、他の学問にない可能性が、いまだあるからです」と答えることにしています。もし、そのような可能性が、本当に民俗学に見出せなくなったとしても、私は敗北を抱きしめながら民俗学者と名乗るつもりです。それは孤独な闘いですが、70年代には福田先生も孤独でした。

翻って中国を見るならば、第三世代の学術革命が羨ましい限りです。少なくとも、変わるという選択肢を選び、それを団結して実行に移すことができた世代は、過去に強く拘泥される日本民俗学よりも幸せですし、その意気込みに敬服するばかりです。しかし、一方で今後の第三世代の運動の継続性と統一性に関しては、私は若干の不安を感じます。施愛東博士の率直な説明によると、変化を求めた第三世代は、まさに小異を捨てて大同団結したものでした。大きな変化を達成した現在、その小異が再度顕在化することと思います。研究の方法、関心、目的、分野のいずれをとっても、一つにすることは困難です。中国においても、学問境界の溶解が今後進展するでしょうから、民俗学の多様化は避けられない。また、さらに日本民俗学を他山之石とするならば、あえて一つにすることは学問発展において逆効果です。

そうすると変動期にある中国民俗学のなかで、今後、小異の間の研究上の主導権獲得競争が起こるでしょう。起きなければ、日本民俗学のようにそれぞれが分断された拡散状況へと陥るだけです。そういったなか、本来やるべきことは、他学問との研究上の主導権獲得競争であるはずです。そこで一定の成果を得なければ、学問社会の隅っこの地位しか与えられないか、あるいは学問社会から脱落させられるかのいずれかでしかありません。日本民俗学は、まさにその危機にあります。そして、アメリカ民俗学なども、まったく同じ危機の状況にあります。日本では1950年代から学院化を進展させ、学問の標準化が行われ、その後、固定化されて変化しなかったために、民俗学の危機を迎えています。一方、アメリカでも、20世紀中庸に学院化が進展し、学問の標準化が行われ、さらに20世紀後半には、変革もなされました。その変革を試みたアメリカですら、民俗学の危機を20世紀末に叫ばなければならない状況に陥ったのです。

それぞれの国で、それぞれの民俗学を取り巻く歴史や社会・学問状況、研究環境が異なるので、まったく同じに判断することはできませんが、世界の民俗学の状況から判断すると、中国における大きな学術革命のあとに生み出される状況も、単純に楽観視することはできません。しかし、少なくとも「変革」を選択した、中国の第三世代の動きは正解だったと思います。そして、それが今後の中国民俗学の発展に寄与する学史的な出来事であったと確信します。さらに、その変革は、第二世代から第三世代への発言力の移行や、民俗学の学院化、体系化で終了するのではなく、その後も不断に継続される必要性があるのでしょう。そして、その変革を継続する強い決意を、施愛東博士の講演から力強く感じ取りました。この運動の道筋は、今後、中国民俗学から日本民俗学が学び取らなければならない重要な課題となると、私は考えています。



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小人家发表于 民俗学论坛2010-8-6 02:07 


菅丰老师54#回复的中文翻译。照例使用蓝色文字,以便阅读。

标题:关于“普通的学问”

  由于讨论中包含了一些比较难的内容,以我的中文水平,恐怕未能正确理解施先生和王先生的论点。异文化间的对话到底还是容易招来误解。如果有错误,敬请原谅。另外,这么长的日语的文章,如果万一小人家要翻译的话,特在此道歉。对不起(太客气了!我主要是怕我们师兄这个睁眼瞎着急。)

  接下来,首先说说“普通的学问”的意思。这里的所说的,和31日现代民俗学会“超越福田亚细男”研讨会上福田先生所说的是一样的。所谓“普通的学问”,指的是学院化的,与其他学科有着同样的学术规范和学术规则的,进而有着与其他领域使用共通的语言进行交流的体系的学问。福田先生从20世纪70年代以来,一直殷切地希望日本民俗学成为普通的学问,并为之努力,我也继承了他的这一志向。

  福田老师和我主张“普通的学问”,是过去的日本的民俗学,进而现在的亦是如此,不是普通的学问这一应该否定的状况的一种体现。在福田先生开始活跃的20世纪70年代,还有一些第一代研究者。他们中的大部分人没有受过学院式的民俗学教育,而且是没有必要对学问负责的非职业性研究者。改革这一状况,使民俗学学术化,是作为第二代的福田先生的一项重要工作。

  但是,这项工作并没有充分完成。现在,虽然日本民俗学会有2300名会员,但是当中的职业研究者,也就是大学的研究者或者博物馆等其他公共机构所属的研究者不到三分之二(这是我的推测)。也就是说,与其他学科比起来,所谓非职业性的研究者,或者说业余爱好者很大程度地参与学会活动。这种状况,与文化人类学会、社会学会等其他学会比起来,是“不普通”的。

  但是,我认为现在日本的民俗学的问题,不在于这些非职业性的研究者。问题在于,在大学有职位的(理论上是)职业的专门的(professional)研究者的水平之低。就我个人的意见来说,在专业的、职业性的学术界能够真正行得通的研究者,在日本民俗学会的2300名会员中,我想大概只有100人左右。虽然名义上是在大学工作的教授,但是这只能在民俗学这个狭小的世界里吃得开,在更广大的学术界里连名字都没有人知道,也不会有人理睬。中国当然也和日本一样,在职业性的研究者里,既有很优秀的,也有很差的。这之间的差距,在日本民俗学界,不得不说仍然是很大的。

  福田先生和宫田先生等人一起,为了让由业余爱好者构成的第一代的研究能够学院化,主导了概论、调查/研究手册、集成、日本民俗大辞典等基础书籍的编撰工作,推进了民俗学的体系化和科学化。这是使民俗学“标准化”的尝试。在当时,这个“标准化”的尝试是正确的,同时在那个时代是必要的。在这样的标准化的过程中,大学教师的职位得到了扩充,同时,民俗学被采录为国家下发科学研究经费的一个项目,也就是说,在公共的、社会的层面上被承认为一门学问。因此,对这个时代背景下的“标准化”,我是给以肯定评价的。

  但是,那以后,这个标准化的结果是,出现了学术的划一化,或者说将标准视为金科玉律一般一成不变的学术的僵硬化现象。陷入这个现象当中的,正是理应发起变革的第二代研究者自己。第二代研究者是在战后,在大学教育中学习民俗学的。在学习中,他们学会了论文的写法、资料搜集的方法等学术规范。但是,关于理论、目的、对象,他们只是简单地接受了经福田先生等人标准化过的东西,没有任何疑问地,惰性地不断进行研究,一直懒于努力地自己独立进行思考,直到现在仍然如此。

  这些研究者们,一直把自己封闭在一个刚刚形成的学问,也就是民俗学中,懒于了解国际的研究水平或者从其他学科学习知识。其结果是,20世纪90年代起,其他人文·社会科学发生了很大的变化的情况下,只有民俗学没有变化而被落下了。也就是说,民俗学再次变成了“不普通的学问”。

  本来,福田先生等人的标准化以后,后辈们应该根据时代和学问的状况努力更新标准。但是,令人遗憾的是,第二代的大部分人缺乏这样的能力和意欲。其结果是,20世纪90年代开始的日本民俗学的停滞一直延续到今天。

  另一方面,从20世纪90年代开始,以年轻研究者为中心,出现了改革,或者是尝试建构新的民俗学的动向。其中有很多虽然没有被介绍到中国,但是先进的、前沿性的论证和考察。事实上,到现在为止,日本和中国民俗学的交流是以第二代学者为中心的。在这些交流中被介绍到中国的日本民俗学的业绩,并不一定都是优秀的研究者或者论文、书籍。

  20世纪90年代以后的日本民俗学研究,兴趣和研究方向都呈现多样化,没有统一的方法论和目的,甚至对民俗学的地位也没有形成共识。因此,以“第三代”进行概括,确实有点令人踌躇。当中一个个单独的研究行动,虽然也有让人耳目一新的革新性的东西,但是都不具有单独代表民俗学全体的能力。如果勉强寻找他们的共通点的话,福田先生认为,只有“否定历史民俗学——福田先生无论如何不肯抛弃的东西”这一点。因此,福田先生对20世纪90年代以后的这种否定历史民俗学的多样性的民俗学现象,称之为“民俗学的衰落”而给予强烈的否定。

  但是,这种研究的不统一和扩散,是后现代时代中在其他人文、社会学科也同样发生着的现象。在很多学问上,宏大理论正在动摇,以一个想法或者方法推进研究等情况正变得不可能。在此之上,方法、理论、对象都发生了不分领域的、跨领域的联系。在这种情况下,日本有一种认为固执于民俗学这个学科(discipline)本身就没有意义的风潮。我认为这样的状况,虽然是混沌和迷惘的,但是与第二代那种顽固地拒绝改变的学术姿态相比,更具有未来的可能性。因此,我与福田先生恰恰相反,认为这种状况不是“衰落”,而是新的民俗学的胚胎期,是为了新民俗学的诞生而雌伏着,等待机会的重要时期。

  但是另一方面,现在年轻的硕士博士研究生当中,由于他们是由第二代研究者培养的,想法上受到了很大的限制,也存在一些与第二代研究者持有同样的想法,并打算继承的人。具有讽刺意义的是,有一种越是年轻越是保守,拒绝革新的倾向。对此,执学界牛耳的,统治着研究环境的第二代研究者应该负责。

  第二代研究者不同于第一代研究者,他们受到了学院化的教育,但是学院化并没有真正成功。直至今日,还有研究者使用着由第一代研究者制造的,“常民”、“传承”等,只能在“日本”通用的,并且只能在“民俗学”通用的专业术语(jargon)。如果是负责任的研究者的话,应该注意到这些概念已经陈腐化,不可能在现代社会使用了,但是封闭的第二代研究者和受到他们的教育的年轻研究生们却没有注意到这一点。又或者是,即使注意到了,由于没有与其他学科交流,或者与海外民俗学交流的能力,对此感到恐惧,因而干脆内向地封闭在自己的世界里。这就是排他性的“爱民俗学主义”。

  为了打破这种状况,必须充分理解第二代研究者,搞清楚他们的问题所在,并且进行清算,进而超越他们。不是忽视、抹煞第二代研究者,以及引发破坏性的变化,而是需要与他们正面斗争的姿态。31日的“超越福田亚细男”研讨会就是为此而筹划的。在这次会议上得到明确的是,福田先生的“民俗学=历史学”,以及绝对不改变这一点的顽固的姿态。福田先生完全拒绝了变化,其姿态堪称凛然。

  但是,今天的日本民俗学要对应21世纪的话,必须让历史民俗学不再是这个学科的“全体”,而是“部分”。也就是必须把福田先生非常珍视的方法变成民俗学的one of them。我认为这是这次研讨会得到明确的一点。但是,另一方面,现在我们还不能提出其他有力的选择。正如先生所说的那样,实际上第三代研究者的兴趣和方法是多样化的。这一个个研究,并不具有福田先生所主张的历史民俗学那样的同一性。毋宁说,正是这种多样性孕育着民俗学继续发展的可能性。这与生物的多样性问题是一样的。

  把多样性的民俗学积累起来的同时,必须从中取舍选择出一个有力的民俗学。福田先生在研讨会上也说到,今后产生的多种多样的民俗学,有必要各自为了获得民俗学的正统性,争夺霸权而进行竞争和斗争。也就是研究的扩散以及各自的竞争,在今后是被期待的。但是,现在的日本民俗学的第三代研究者与中国的第三代研究者不同,在人际关系上,在价值上都是互不关联的。因此,日本民俗学处于无法发起学术革命的现状。研究方法单一的第二代研究者,反而更容易团结起来。当然,团结紧密的集团掌握着学界的主导权。但是,虽然是慢慢地,今后世代应该将会逐渐交替。在这个过程中,第三代掌握了主导权,如果能舍小异而大同团结的话,日本民俗学应该将会发生巨大的变化。但是,这不是一件简单的事。毋宁说,也许在每一个研究者对民俗学这一学科(discipline)的定位越来越弱的今天,执着于民俗学不放的,只有那些无法改变的,能力比较低的研究者。恐怕固执于小异,无法达到大同状况还会继续下去。

  虽然我在社会学、文化人类学、历史学等领域进行着跨学科的研究活动,但是我对自己的学术定位是民俗学者。我是对民俗学有着强烈执着的研究者。这不仅是因为我的学术出身是民俗学,还因为我在民俗学看到了其他学科所没有的可能性(关于这个可能性,有机会再讲)。我经常被其他学科的研究者和没有强烈的民俗学的自我定位的研究者问道:“为什么还固执于民俗学?”我每次都一定会回答:“民俗学现在还有着其他学科所没有的可能性。”即使确实无法在民俗学中找到这种可能性,我也打算拥抱着自己的失败,继续以民俗学者自称。这是孤独的战斗。70年代的福田先生也是孤独的。

  反过来看中国,第三代研究者的学术革命是令人羡慕的。至少,这个选择了变革这个选项,并且能够团结起来付诸实际的世代,比强烈地拘泥于过去的日本民俗学要幸福,同时我对你们的斗志也只有敬服。但是,另一方面,我对第三代的运动在今后的连续性与统一性感到有些不安。根据施爱东博士的直率的说明来看,寻求变革中的第三代研究者,正可以说是舍小异而求大同团结的。似乎现在完成了巨大的变化以后,这些小异又再度显在化了。在研究的方法、兴趣、目的、领域等任何一方面,合而为一都是困难的。因为在中国,学科界线今后也会不断溶解,民俗学的多样化是不可避免的。同时,如果以日本民俗学为他山之石的话,可以看到,统一对学术发展来说是反效果的。

  处于这种变动期中的中国民俗学,今后各个小异之间也许将会发生获得主导权的竞争。如果没有发生的话,只会像日本民俗学这样陷入各自断裂的扩散状况。在这种情况下,本来应该做的是与其他学科进行获得研究上的主导权的竞争。在这当中如果没有得到一定的成果的话,也许结果会是以下两种情况中的一种,即只能获得在学术界的边缘地位,或者从学术界被淘汰。日本民俗学正面临这样的危机。同时,美国民俗学等,也面临着完全相同的危机。在日本,从20世纪50年代开始推行学院化,进行学术的标准化,那以后被固定化而没有变革,因此陷入了民俗学的危机。另一方面,美国在20世纪中叶推进学院化,进行学术的标准化,进而在20世纪后半叶也发生了变革。即使是尝试了变革的美国,也在20世纪末陷入了不得不疾呼民俗学的危机的状况。

  虽然在不同的国家,围绕着民俗学的历史、社会、学术状况、研究环境不同,不能进行完全相同的判断,但是从世界的民俗学的情况来看,中国的巨大学术革命以后产生的状况,也不能单纯乐观地看待。但是,我认为至少选择了“变革”的中国第三代研究者的行动是正确的。同时,我确信这将是有助于今后的中国民俗学发展的历史性事件。进而,变革不应该停留在发言权从第二代研究者转移到第三代研究者,以及民俗学的学院化、体系化上,今后应该也有不断继续的必要。同时,我从施爱东博士的报告里强烈地感受到了继续这种变革的决心。我认为,这次运动的轨迹,是日本民俗学应该从中国民俗学学取的重要课题。


  这个是真的匆匆译就,翻译完以后没有仔细检查,意思应该是没有什么大错的,如果有错别字,请大家开动人脑自动纠错功能,多多包涵。
  大概是因为进入暑假,大家都各忙各的去了,参与话题的同人有点少。我就在这里充当一下会议主持人,希望大家踊跃发言讨论,不要辜负了菅丰老师的拳拳盛意。我虽然不爱辩论,但是也知道有辩才有论,一个人的独角戏唱起来不爽。拜托了!

[ 民俗学论坛最后由 小人家 于 2010-8-6 14:45 编辑]

http://www.chinesefolklore.org.cn/forum/viewthread.php?tid=16255&extra=page%3D1&page=3

再次感谢彭小人家博士的辛苦!



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TAG: 普通的学问

 

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